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つれづれエッセイ 1
銀河列車
☆銀河列車 東京駅午後11時43分発。東海道本線には「銀河」「ムーンライト」という名前の夜行列車が 今も走っている。でも当時はそんな洒落た名前はついていなかった。もう随分と昔の物語だ。 旅好きだった青年が、岐阜の大垣行夜行列車を利用するのは二度目だった。 一度は仲間と京都に行く時、そして今回は一人で飛騨高山を目指している。このような 鈍行夜行列車の存在は、当時の貧乏旅の学生にとっては有り難いものであった。 青年は前後にドアがあるタイプの客車の、一番ドア際の前を向いて左の席に落ち着いた。 4人掛けが主体の作りの客車で、ここだけが2人掛けの席になる。列車は通勤電車の 終電際の時間帯なので酔客でごった返し、通路や踊り場まで超満員だった。 旅の風情どころではない。それでも平塚を過ぎる頃には大分車内も落ち着き、 小田原を過ぎる頃には空席も目立ちはじめ、夜行列車特有の空気になっていった。 青年は21歳。夏の終わりに、高山に行っている仲間達を後から追いかける旅だった。 トイレに立ち、踊り場に出た時だった。不思議な女性を見掛けた。海外旅行用の 大きなスーツケースを立てて腰掛け、列車のドア際で窓の外を見やっていた。 腰まで届くほど長い髪は、当時日本ではあまり見掛けない茶髪系色で、空気感や 着こなしたラフな服装にも異国の匂いがした。客車にはもう空席がチラホラあるのに、 踊り場で一夜を過ごす事を決めているようだった。ふと「宇宙人かな?」と思うほど・・・ ほの暗い踊り場にあっても、彼女は本人の意思とは多分裏腹に異彩を放ち、 格段に目立ってしまっている。確かに客車に来ても、居心地はよくはなさそうだ。 席に戻ると煙草に火を点け、ぼんやり窓の外を見やる。闇の中には海の気配があり、 列車は湯河原駅に入るところだ。客車の前方で、性質の悪そうな酔客が喚いている。 指が何本か欠落し、顔中に切り傷や火傷の跡のある男が、酔って一般客に絡んでいる。 それは暴力や揺すりたかりの類ではなく、一般客に肩などを組んで一方的に、 己の男道なるものをまくし立てる類のものだった。聴いていると面白い箇所もあり、 「いずれ順番が来るかな?」と胡散臭く思いながらも、いつしか浅い眠りに落ちていった。 ふと人の気配で目を覚ます。青年の傍らの通路に、先ほどの女性が立っている。 疲れて客車に席を求めに来たのかと思い、横たえていた体をずらして席を空けるが、 一向に座る素振りを見せない。煙草を燻らせて窓の外を見ると、暗闇では車内が反射し、 外よりも車内の風景がよく見える。彼女は何か所在なさげに不安な顔をしている様子だ。 通路の反対側の席でやはり横になっていた酔い酔いのサラリーマン風のオジさんが、 太い体を起こして同じ様に座る空間を作ったが、黙って立ったままの彼女に焦れたか 「お嬢さん。そんな所に立ってないでお掛けなさいよ」 と声を掛ける。ふと我に返ったように、彼女は困惑の表情を見せたように思えた。 振り返った青年と彼女の目が合った。「助けて」とでも言われたような気がして、 青年は「座れば?」と声を掛けた。躊躇いがちに、彼女は青年の隣に腰を下ろした。 正直悪い気はしなかったが、人見知りな青年は会話ベタな事もあり、少々戸惑ってもいた。 隣で間近に見ると、暗闇での印象よりも若く、とても綺麗な子だ。東洋人ではあるらしいが、 日に焼けた肌としなやかでスレンダーに伸びた手足は、東南アジア系かとも思わせた。 シンとした夜行列車の中で軽々しく話しかけるのも馬鹿な気がしたので、暫くは黙っていた。 通路の反対側にいたオジさんは面白くないのか、何かをブツブツ囁いている。それを聞くと、 互いにクスっと笑みがこぼれた。大人びて見えた彼女の笑顔に、仄かに幼さが浮かんだ。 「どうかしたの?」と訊いてみる。彼女は先ほど自分がいた踊り場の方を不安げに見やる。 どうも例のやくざ風の酔客が踊り場に来て、彼女を見かけて「中に入れ」と話しかけてきた、 「ここでいい」と断ったら例の調子で講釈が始まり、ついには「ここで一緒に寝るか?」と言って 彼女の足元で横になって眠り始めた、驚いた彼女は荷物もそのままに客車に逃げて来た・・・ という事らしい(?) 微かに訛りがあるが、喋る言葉は日本人のようで、青年は少しホッとした。 踊り場を覗いてみると、なるほど例の男が彼女のトランクの脇で寝転がって高イビキをかいていた。 青年は重たいトランクを持ち上げ、男に気付かれぬよう客車内の二人の足元に運んであげる。 彼女の表情にようやく安堵の色が浮かんだ。でも顔色は冴えず、疲れているように思えた。 それでも安心したのか、夜汽車の行きずりの気安さか、彼女はポツポツと身上を話し始める。 少し日本語がおかしいと感じるのは訛りのせいではなく、海外生活が長かったからのようだ。 しかし何を話すにも、今の状況を説明するにも、異次元の世界から現世に迷い込んだように、 多くの前提が見え隠れし、その背景が判らないと話しがつながって来なかった。そして全ては 彼女の数奇な運命につながってしまう事、それは話す方も聞く方も、互いにかなりの労力を 要す事を、青年はすぐに直感した。平静を装いつつも、ゆっくりと、慎重に話しを紐解いてゆく。 夜汽車で持て余す膨大な時間と、行きずりのこんな出会いだったからこそかもしれない。 彼女は重い口を開き、低い声で、ゆっくりと話が始まった。 ☆基地の町の少女 彼女の名前はFujiko Edward。この時、19歳だった。 ハーフではない。アメリカ人の夫がいる、れっきとしたMrs.だ。 生まれは山口県の岩国市。錦帯橋で有名な城下町だが、同時に米軍基地の町でもある。 名家の本家筋に生まれたFujikoには双子の兄がいるらしく、両親は親戚の反対を押し切り、 大恋愛の末にご結婚されたそうだが、母親はその呷りでネチネチ苛められ続けたそうだ。 可愛い双子のFujiko達が生まれた時も、当時でも時代錯誤と思える理由で嫌味を言われ、 体の弱かった母親は、具合の悪い時も寝込む事が出来ず、何かと集まって来る親戚達の、 井戸端会議の格好の標的だったらしい。父親はFujiko達が生まれてから徐々に寡黙になり、 母親を庇う事もなく、家庭も顧なくなったそうで、子供心にもそれは悲しい程に判ったらしい。 そんな家の空気を忌み嫌った兄妹は申し合わせたように家には寄りつかないようになり、 其々が荒んだ思春期を送ったようだ。高校に上がったFujikoは、学校にも行かずに数人で 岩国の市街をフラフラするうちに米兵に声を掛けられ、遊ばれてしまう。ただ米兵の一人は その時初めてであったらしいFujikoに心が揺れ、彼はFujikoに恋をし、プロポーズをしたそうだ。 Fujikoが17歳の時の事だそうだ。家を出たいと思っていたFujikoは、多少の不安はあったが、 周囲の親戚一統がそれこそ猛反対する中を、誰にも祝福されずに彼と結婚してしまう。 たった一人、母親だけが「仲のいい二人なんだから」と応援してくれたらしい。動機はともかく、 Fujikoも彼を好きではあったのだろう。でも結婚後すぐ、彼は本国へ転勤になる。 母親だけに見送られ、Fujikoは言葉も文化も全く違う異国へ何の備えもなく、旅立ったのだ。 そして残された母親は、未青年の結婚に必要な親の同意書にサインした事を責められ、 益々親戚達の「鬼畜米英」風の非難の中で、絶望的な日々を送るようになる事を、 この時のFujikoには顧る余裕さえなかったのだ。この直後、兄も大阪へ出て行ったらしい。 アメリカではサンタモニカに居住し、カリフォルニアの海が庭のようなものだから、一年中日焼けして、 髪の色も染めたのではなく、常夏の太陽に焦されての茶髪色なのだそうだ。青年は最初、 いつか見た洋画の場面を想像したが、話しは一見華やかそうでも、異国での暮らしは早々に Fujikoを鬱にした。英語がほとんど話せなかったから、言葉が判らない。知り合いも全くいない。 食べ物も合わない。本国に戻って有頂天の彼は、毎晩のようにパーティーに出掛けていく。 「待っているのはイヤだから連れてって」とせがむ。でも大勢の人がいるパーティー会場で、 Fujikoはより孤独になっていった。ある夜に連れていかれたパーティーでは、年齢も近く、 比較的Fujikoにも馴染みのあるメンバーが揃っていた。しかし何か様子がおかしい。 彼が友人の奥さんと腕を組み、消えて行く。すると別の友人がFujikoに腕を出し、促す。 訳も判らず、エスコートされるままについて行くと、ベッドルームに二人きりになってしまう。 友人は鼻息も荒く、彼女に圧し掛かってきた。いわゆるスワッピングパーティー(夫婦交換)だった。 「突っ張ってたけど、やっぱり自分は日本の古いタイプの女だと思い知ったよ」 と力なく笑う。 Fujikoは抵抗し続けたそうだ。「できない・・・」 おそらくは彼を恨みながら、泣き叫んだそうだ。 すっかり萎えてしまった友人は、それ以上の無理強いはしなかったが、後で不服そうな顔で 彼に文句を言っていたそうだ。彼の方は上気して紅潮した頬を緩ませ、笑顔で取り繕う。 そのあまりにも罪のないスッキリした笑顔を見た時、Fujikoの中で何かが弾けたそうだ。 そんな頃、Fujikoの母親が日本で焼身自殺したとの知らせが届き、彼女は深い絶望に落ちた。 Fujikoは二度と日本に帰るつもりもなかった為、既にアメリカに国籍を移してしまっていた。 彼女がビザ取得に手間取って、母親の葬儀が終わってからの帰国となったのも皮肉である。 米軍の家族は福利厚生で、無料で軍用機での日米往来が許されているそうだが、便や 着陸地は選べないらしく、彼女は立川基地に着いたのだ。2年間暮らしたアメリカの生活にも 彼にも絶望し、あるだけのお金は持って出たが、ドルばかりで円はほとんど持ち合わせず、 用立てる間も知恵もなく、慣れぬ土地で揚々に東京駅迄辿りつき、新幹線最終も出た後で、 駅員に訊いた挙句、やっとこの大垣行の夜行列車に飛び乗ったらしい。取りあえず大阪の 兄の所へ寄るつもりらしい。寝ていないし食べていない。折り悪くも月のものが訪れ、 体質的に重いとの事だ。21歳の日本の青年が、初対面では赤面してしまうような話しだが、 これも文化と感覚の違いか違和感はない・・・でもFujikoはこの時、正にボロボロだったのだ。 Fujikoは、最初は身上をそこまで話す気はもちろんなかったであろう。青年も思いがけなかった。 でも誰かに聞いて欲しいという潜在意識は彼女にあったかもしれない。青年もそれを望んだ。 夜汽車は静岡を過ぎた。堰を切ったように話しは続き、いつか瞬きさえも触れる距離にいた。 そんなに話好きでも話し上手とも思えないFujikoが、いかに話し相手に飢えていたか・・・ 夜汽車はうってつけだった。行きずりでなければならなかった。でもそれはあまりに悲しい事だ。 Fujikoはアメリカに戻る気はもうないと言った。かといって離婚して日本に戻る気もないと言う。 彼女は母親をいたぶった親戚達への復讐のみを考えていた。この時は物静かに思えたが、 内に激しい気性を秘めているのだろう。その先に口を噤むFujikoから、青年は先を促した。 「焼身自殺なんて・・・死に方としてはほとんど衝動というか、狂気やん?異常やん? あんなに穏やかなお母さんを、優しい人やのに、親戚らぁそこまで追い込んだんやわ・・・」 親戚達の目の前で自分も灯油を被り、火を放つ。それがアメリカを発つ前、朦朧とした頭の中で リフレインしていたFujikoの唯一の拠り所だったようだ。切なすぎる話しだ。親戚達に当てつけて、 母親の墓の前で焼身の死を決行する・・・その為だけに、遠い異国から故郷に帰って行く女・・・ それがその時のFujikoだった。「アメリカもハズも、もう何も期待してない。もうどうでもいいんや。」 力なくそう言い切った。青年がFujikoに同情したとしても、彼女はそれを嫌がらなかっただろう。 同情であれ何であれ、むしろ彼女には人との負のベクトルでない感情のつながりが必要だった。 バッグから米国の結婚証明書と結婚指輪を出して見せ、「一緒に焼くんや。」と呟く悲しい瞳。 不器用で必死な青年の拙い説得は、その後ほぼ一晩に渡って続くのだった。 いつしか車窓の風景は、朝の気配に白みかけていった。 名古屋の手前あたりで、先ほどの寝ていたその筋の男が起きて来た。Fujikoを見つけると、 通路の反対側の、酔い酔いオジさんの席の手摺に腰掛け、彼女に大声で話し掛けてくる。 Fujikoは一気に恐怖が甦り、怯え、震え始めた。窓側にいた青年は、通路側にいたFujikoを 抱きかかえるようにして身を乗り出し、男の話しを引き取った。Fujikoが目的の男は怪訝顔だ。 酔い酔いオジさんは寝た振りをしてたが、じきに名古屋駅に着くとスッと立ち上がって降りた。 さすがにここで降りる人は多い。出口に近い席なので、男もさすがに一度踊り場に出た。 その隙に青年はFujikoを窓側に座らせ、自分が通路側に移る。戻った男は更に不機嫌だ。 ちょっといやな雰囲気だ。「おめえはこのスケの男か?」と男が訊いた。「そうですよ」 青年は頷いてしまった。しかしカップルを装う事で、男は少し諦めたように落ち着いた。 それでも男は他へ行きそうもない。青年は腹を据えて相手をしたが、男の話しは止まらない。 人を撃った話、人を切った話、刑務所の話、鉄砲玉としてならした昔の話・・・青年は気付いた。 そう、全て昔の話だった。戻りようもない昔・・・夜汽車で、酔って素人衆相手に昔を語る男は、 未来を見ない。見たらただのみすぼらしい男になる。見たら悲しくもあり、怖いのであろう。 郷里の九州の母親の元にたった一人残して来た息子の事を語り始めた瞬間、男は遠い目をし、 怯えるように元の強面に戻って、退屈な武勇伝を再び次々と繰り返す。さっきから同じ話しの 繰り返しばかりだ。愛すべき厄介者・・・。様々な人生を、夜汽車は乗せているものなのだ。 青年の下車駅である岐阜が近付いた。このまま怯えるFujikoを残しても行けないので、 青年は彼女に耳打ちをする。「岐阜に着いたら俺がトランク持つから、一緒に降りよう」 大垣まで行ったところで、大阪はまだ遠い。どのみち何度か乗り換えなければならない。 じきに列車は岐阜に着く。ドアが開く。発車のベルと同時にトランクを持ち上げ、席を立った。 「それじゃオジさん!ここで!」 そう言い残し、二人は素早く列車を飛び降りる。ドアが閉まる。 不意を突かれて、男は追っては来ない。様々な物語を紡いだ列車が、朝霧の中へ消えていく。 しばらくはポカンと見送っていた。放心状態だ。朝の光が眩くもあり、清々しくもあった。 「さて、どうしようか?」 取りあえず駅舎内の朝日のさし込むスタンド喫茶に入り、サンドイッチを Fujikoに食べさせる。彼女は円の小銭とドルしか持っていないのだ。夏の朝、そのスタンド喫茶は 妙に居心地がよかった。コーヒーが結構美味いが、互いに食はあまり進まない。朝食を終えると、 青年は大阪までの時刻表を調べ、メモにして1万円札と一緒にFujikoに渡した。 「メモの通りに行って大阪着いたら、岩国までの旅費は兄貴に借りるか銀行で換金しなよね」 「ありがとう。お金・・・返さないと私・・・」 言葉が絶え絶えになる。青年は返さなくていいと言うつもりだった。「私・・・私・・・」 ホームに並んで立ち、無言が続いた。肝心な話しの結論が出ていない事に、互いに焦った。 もっと話したいが時間がない。Fujikoの話しを聞くには、一晩でも時間が足りなかった。 「電話番号・・・教えて。お金・・・返さないと。」 Fujikoが口を開いた。青年は閃いた。 「教えるから馬鹿な真似しないで電話しろよ。5日後に東京に戻るから、話しの続きをしようよ」 Fujikoは大きく頷く。 「お墓参りやら色々済ませたら電話する。なんかうまく言えんけど・・・」 丁度列車が入って来た。 「なんか逢えてよかった。東京にお金返しに行くね。あなたに・・・もう一度逢いたい」 その後は列車の音にかき消されてよく聞き取れなかったが、青年は気持ちが軽くなった。 デッキに大きなトランクを置き、Fujikoを列車に乗せた。 「なんか・・・不思議なんよ」 「何が?」 「今、不思議な気持ちなんよ」 発車のベルが鳴る。 「必ず逢いに来い」 「うん。ありがとう・・・」 列車が出ていった。この日2本目の見送りだ。もう夏の太陽が眩しい時間になっていた。 高山線に乗り換える。ドッと疲れが出て、高山までの間、青年はずっと船漕ぎ状態だった。 ☆逃避行 青年が東京に戻った夜、電話はあった。青年の家には前日にも電話があったようだ。 青年は旅の途上、あれは夢だったのかと思うようにもなっていた。ありそうでなさそうな出会い。 突飛な出来事の一つ一つや、ショッキングなFujikoの身上や・・・彼女に降りかかる運命の数々。 青年の心に影を落とし、気持ちが疼けば疼くほど、現実の事だったか否かが判らなくなった。 でも今、おそらく二人にとって過酷な程に長い5日間を経て、受話器の向こうに彼女の声がする。 電話の向こうの、その少し訛りのある声は、二度目なのに懐かしい。 実際には想像していた以上に、Fujikoの母親は酷い仕打ちを受け、壮絶な死であったそうだ。 親戚達はその死を悼むどころか世間体の取り繕いに奔走し、厄介とか面倒とかのみを口走る。 それは彼女の傷を更に抉り、怒りと憎しみを増幅させ、失う物はないと絶望感を煽ったが、 唯一の歯止めとして、夜汽車での出会いと青年との約束だけが衝動を思い留まらせたようだ。 自分が何をするか判らず、怖かったと言う。もう一度逢うという、その約束・・・。 「すぐに東京に来い」 「いいのなら明日行く」 翌日、青年は銀行で貯金を全て下ろし、車に燃料を満タンに入れて東京駅に向かった。 東京に来いとは言ったものの、Fujikoに安息を与えられる場所を確保出来る当てがなかった。 再会してから静かでゆっくり語り明かせる場所を探そうと思っていた。渋滞で少し遅れた。 新岩国から新幹線で東京駅に着いたFujikoは、ホームで不安そうに待っていたが、やはり目立つ。 泣き笑いするでも抱き合う訳でもなく、照れ臭い再会を果たした。大きなトランクは持ってない。 8月ももう明日で終わりだ。取りあえず青年は車を避暑地に向けて走らせる。出会った時よりは Fujikoの顔色がいいようには思える。結局その日は八ヶ岳高原の原村のペンションに宿を求めた。 アメリカを出る前も、ここ数日も、Fujikoは案の定ろくに食べ物が喉を通っていなかったようで、 料理自慢を掲げるそのペンションのフレンチディナーは久々のまともな食事らしい。確かに美味しい。 でも縮んでしまった胃袋は、急には受け付けてくれない。時間をかけてゆっくり食べる。 少しワインを飲む。Fujikoの顔にほんのり紅がさす。大人びて見えた彼女が、19歳の顔に戻る。 残ったワインのボトルを持って部屋に戻る。しんとした部屋で、青年は話しのきっかけに戸惑った。 それでもFujikoの方から、大阪の兄と再会してからの事をポツリポツリと語り始めた。憤りに震え、 悲しさを憎しみに置き換えてパワーにし、Fujikoはそれからの5日間を丁寧に語ったのだ。 堪えていたのであろうに零れる涙が力なく彼女の頬を伝った。青年はFujikoを抱き締めていた。 「もういいよ。喋らなくていい。大丈夫。よく我慢した。よく来た。逢いたかったんだ。」 「ホント?迷惑じゃないの?来るの、随分迷ったんよ。ホントにそう思ってくれるの?」 「ほら、ここにいるじゃないか。俺達がここにいる事を、世界中の誰も知らないんだ。」 二人は世間から、確かにこの日以来消息を絶った形だ。捜索されても二人を結ぶ接点はない。 明け方、青年とFujikoは抱き合ったまま、一つのベッドに横たわっていた。Fujikoは震えている。 躊躇いがちに唇が重なる。見つめ合い、瞬きもしない。彼女の震えはそれでも止まらない。 青年が腕の力を緩めると、Fujikoはしがみついてくる。「離れないで」と彼女は言った。 「判らない。判らない。」 闇の中で彼女は繰り返している。 「何が?」 青年が訊き返す。 「わたし・・・わたしのしてる事・・・これ、浮気になるんよね?」 青年は理解した。未練を切って愛情も枯渇したはずの夫に、本能的に操を立てているのだ。 古いとか今風とか、日本人とかアメリカ人とか、そんな理屈ではない。彼女の母親が、 きっとそういう人だったのだ。母の魂は、彼女の中に生きていると青年は感じた。 そんなFujikoを愛しいと思った。青年はその夜、朝までずっと沿い寝していた。 翌朝、八ヶ岳地方は美しく晴れ渡っていた。清泉寮で思い切り草原に寝そべって戯れていた。 「さて・・・これからどうしたものか・・・」 青年は考えなくもなかったが、心地よい気だるさと 眠気に身を委ねてFujikoとの時を過ごした。彼女の方がもっと不安だったに違いない。 でもFujikoは、日中はそんな気配は微塵も見せない。空が青く、緑が美しく、空気が清々しかった。 なのにこの人はなぜこんなにも傷付かなければならないのだろうと、青年は不思議になった。 その日の夕方からは、最近この辺りに出来たという貸し別荘村に宿を取った。 互いに持ち金を出し合い、Fujikoの岩国までの旅費や諸々を計算して、3泊の予約とした。 食事は贅沢は出来ない。別荘村のスーパーで買い出しし、自炊にした。別荘のキッチンでは、 互いに滑稽な料理を作り合い、大笑いしながら食事の準備をしたが、あまり美味しくはなかった。 その夜、前の日はあれほど止まらなかったFujikoの震えが収まった。なんの躊躇も迷いもなく、 見つめ合い、ごく自然に二人は結ばれた。遠い風の音が聞こえる、静かで星の美しい夜だった。 ほぼ一週間に渡り、二人は馬鹿みたいに一緒にいて、ただ単純に愛し合った。 先の事は何も考えず、資金が底をつくまでは旅を続けようと暗黙に合意していた。Fujikoには 確かに失う物は何もなかった。それゆえに時々不安が彼女を襲う度に二人は激しく求め合い、 溺れた。Fujikoの体には、アメリカで着ていたのであろうきわどい水着の日焼けの跡が 残っている。そこに青年はまだ見ぬ異国の匂いを求め、この肉体が翻弄された運命の糸を 丁寧にほぐし、紐解くように隈なく愛していった。もはや数奇な運命の渦中にいたことも、 ここがどこで自分が誰なのかも忘れていた。ただ互いの存在だけを、互いが認識していた。 猛り合っては寄り添い、寄り添っては再び猛るように愛し合う。Fujikoは何度も果てては、 夢の狭間をさすらい、余韻からゆっくり目を覚ました時、青年の顔がそこにある事に安堵し、 「Thank You!」 と言っては、青年の頬にKissを繰り返した。激しく、美しい怠惰な日々は、 あっと言う間に流れゆき、ほどなく学生である青年の乏しい資金は尽きた。 取りあえず明日は東京に帰る・・・。Fujikoには東京に、親しかった郷里の同級生がいるらしく、 しばらくそこに滞在を願い出てみると言う。もちろんその同級生は、Fujikoの帰国さえ知らない。 青年は車を河口湖に着けた。旅の最後くらい少し贅沢に、Fujikoに相応しい宿をと思い、 いつかは泊まろうと密かに思っていた富士ビューホテルに部屋を取った。当時は今の建屋と違い、 昭和初期の荘厳な作りの老舗リゾートホテルだった。その木の温もりと贅沢な空間使い、そして 湖面に写る逆さ富士の美しさが癒しを誘う。Fujikoの日本名は、正に富士と書く。富士子。 彼女は日本の象徴でもあるこの山が、自分の名前の由来である事は知っていたとしても、 実際の富士山は知らずに育った。青年は旅の終わりに、せめて本物の富士山を、 その雄大な美しさを見せてあげたいと思ったのだ。広く大きなベッドで、大胆に、奔放に・・・ そして富士の如く優雅に振る舞う魂は、この夜は富士子という名の日本の女性であった。 ☆旅立ち・・・ 東京に戻ると、Fujikoはその郷里の同級生に電話を入れた。同時にそれは行方不明になって 漂っていた二人が、現実に引き戻される瞬間でもあった。その友人は電話がFujikoからと判ると 絶句した。岩国から捜索の連絡が入っており、心配していたようだ。すぐに迎えに行くと言われ、 落ち合う場所の打ち合わせで青年も受話器に出た。突き放すような冷たい語調だ。無理もない。 友人は石神井公園の傍に住んでいるらしく、公園の入口を待ち合わせ場所に指定してきた。 友人は一緒に暮らしているらしい男と車で現われ、いかがわしい者を見るように青年を一瞥した。 説明したって判りはすまい。Fujikoは諦め顔で、淋しそうに青年に目で挨拶をし、車を乗り換えた。 青年の目には、運転している軽そうな男が怯えているのが判った。どこの馬の骨か判らぬ男に 騙されて連れ出された友人を取り戻しに行くからついて来て・・・とでも説明されたのだろう。 友人宅で詰問攻めに遭うであろうFujikoの身を案じつつ、空虚な感情が全身を包んでいた。 その場にあの男は訳知り顔で同席し、自分の事は棚に上げて正論をぶるに違いない。 二日後、大学の長い夏休みが終わって、青年は久し振りにキャンパスに顔を出した。 世の中は何事もなかったかの如く、着実に廻り、進んでいく。夕べFujikoから電話があった。 逢いたい・・・思いは同じだった。この日の午後、青年のキャンパスがある江古田に来るという。 判り易い喫茶店を指定した。彼女はこっちで少し服を買ったようだ。白のジーンズが似合う。 でもやはり目立ち過ぎる。噂になるだろうと覚悟したが、どうでもいいとも思っていた。 時間が惜しい。喫茶店の顔なじみのウエイトレスにも冷やかされたが、奥の影の席に落ち着いた。 岩国でも、アメリカでも、やはり大騒ぎだったようだ。旦那は日本に探しに来る直前だったそうだ。 青年は、「愛しているならそりゃそうだろう。」 と妙に納得がいき、救われた気分だった。 何もかも失った筈のFujikoだが、世間から1週間消えるとこれだけ心配する人達がいるのだ。 同級生には一晩かけて話し、何となく判ってもらったが、関係ない男の方がやいやいうるさくて 面倒で嫌だったとFujikoは笑った。あの二人は長くないだろうと一致し、またクスッと笑い合う。 でも笑う度に、確実に近付く別れの気配に、二人とも無口になる。むしろ言葉は要らなかった。 二人は、この一週間で燃え尽きてしまったかのような、心地よい疲労感を共有していた。 そう、何も考えずに好きという感情のまま、激しく求め合い、愛し合った後に訪れた虚脱感は、 決して嫌なものではなかった。むしろ爽やかでさえあった。損得や、計算のない偶然の出会い。 そして始めから別れの予感に苛まれた中で、急速に育んだ愛情と、貪り合った心と体。 「明日、岩国に帰る」Fujikoが言った。 「・・・わかった」青年は頷いた。 その夜はFujikoの友人が心配しない程度に、渋谷あたりで食事し、早い時間に送って行った。 翌日の昼過ぎ、再び東京駅の新幹線のホームに二人は立っていた。少し早めに落ち合って、 ベンチに腰掛ける。風が吹き、Fujikoの長い髪がそよぐ。青年は改めて彼女を綺麗だと思った。 「私ね・・・」 「うん」 「私、本当に貴方に逢えてよかった。」 「うん」 互いに目を見れなかった。 「本当に死のうとしか考えてなかったのに、貴方に逢えた。私は多分、本当に男の人を心から 好きになった事なんてなかったんだと思う。これでも私、結構もてたんだよ・・・」 少し笑った。不器用に、切々とFujikoは伝えようとしている。 「でも貴方に逢えた。すごく好きになった。世の中から見れば不倫とか浮気なんだろうけど、 ちゃんと好きって気持ちあったし、愛してるって実感が嬉しかった。人に説明は出来んけど、 説明する必要もないかなって・・・。でもね。生きていれば・・・」 言葉が詰まった。青年が間をおいてゆっくり訊き返す。「生きて・・・いれば?」 「生きていればこんな素敵な事があるんだって・・・逢えて良かった。話し聞いてくれて、励まして、 愛してくれて、本当にありがとう・・・私、生きるよ。アメリカ帰ってあの人とやり直すよ! 今まで見えなかったものが今は見える気がするんよ。今ならあの人を許せる気がする・・・ 私は許してもらわれんかもしれんけど・・・」 涙目で笑った。かわいいと思った。 「説明出来ん事や言わんでいい事は、敢えて言う事ないのかもしれない。その方が優しいよ。」 少し間があいた。青年が続けた。 「俺もいい恋をした。俺に逢って、生きるって言ってくれたの、嬉しいよ。逢えて本当に良かった。 今まで不幸だった分、きっと幸福になれるよ!」 「うん。私、生きてみるよ。Thank You!」 頬にいつものKissをして、Fujikoが笑った。 青年は溢れくる思いをやっとのことで堪えていた。Fujikoの乗る新幹線が滑り込んで来る。 新幹線のデッキで、二人は俯いたまま無言だった。そこへ映画のなりきりヒロインのように、 シンデレラエクスプレスのカップルの女性が青年の背中にぶつかる。ボロボロに涙を浮かべて、 青年とFujikoの間に割り込んでいるのにも気付かず、鼻の穴をヒクヒクさせてパッしない男の子に 手を振るその子を見て、二人は目を合わせて笑った。かわいい恋愛。頑張れ・・・そのカップルが、 二人を冷静にしたのかもしれない。同時に、自分達はあんな頃は過ぎたという淋しさもあった。 新幹線は静かにホームを離れて行く。Fujikoの姿が遠くなる。もう二度と逢えないだろう。 その刹那な思いに、青年もFujikoも耐えた。視界から遠ざかる互いを確認でき得る全てに集中し、 目を凝らしたが、みるみる列車は見えなくなった。「さよなら」 青年は小さく呟いた。「さよなら」 世の中には、人に話すと陳腐になるが、当人同士が秘める事で育て、成り立つ真理がある。 罪なのは体なんかじゃなく、心だった。でも世間の物差は総じて逆だ。それが滑稽にも思えた。 大切なのはただ単純に・・・シンプルに・・・愛する事。それ以上でも以下でもないと青年は悟った。 Fujikoとの事は何だったんだろう?不倫?いや、あれは恋だ。理屈じゃない。確信があった。 翌日、青年は喪失感に打ちひしがれていた。友人を誘い、大して観たくもなかった映画に行った。 松田優作が出ていたその映画のラストシーンで、旅客機が大轟音と共に空港を飛び立つ場面が、 Fujikoを乗せた軍用機が飛び立つ想像場面と重なってしまい、ストーリーとは無関係のところで、 青年の頬に堰を切ったように涙が流れた。暗い映画館の席を、青年はいつまでも立てずにいた。 そしてこの時思い切り泣けた事で、青年は吹っ切った。素晴らしい経験・・・青年は前を向いた。 この夏、少し大人になった二人が、その後どのような人生を辿ったのかは判らない。 ただ唯一無二、その年が明けた3月。Fujiko Edwardから一通のカードが青年に届いた。 青年は22歳になり、大学を出て就職が決まった。Fujikoはやっと20歳になったはずだ。 “卒業おめでとう!私はその後、彼と幸福に暮らしています!ありがとう!” Fujiko Edward おしまい |